ふみくら:早稲田大学図書館報No.12(1987.10.26) p.2

新収資料紹介

知られざる図書館員

坪 田 謙 治

 坪田譲治―改めて言うまでもなく日本を代表する童話作家であり、稲門を代表する作家の一人(大正四年英文科卒)である。作品『河童の話』・『風の中の子供』等に、密かな郷愁を覚える方も多いであろう。措しくも昭和五十七年七月老衰のため不帰の人となったことはまだ我々の記億に新しい。ところで、彼が嘗て本館の職員であったことを御存知だろうか?
 本館に残された館員坪田壌治に関する唯一の記事と思われる大正六年十月二十二日の『事務日誌』に依れば、「洋書整理部員として坪田譲治雇入の事に内決す 但給料未定」と記されている。(後出の年譜に依れば、その時謙治二十七歳、月給二十円であった。当時の建物は、現七号館附近に位置し、館員三十余名、蔵書数十八万(彼の記意では五十万冊)を数えた。坪田が後年自編の年譜で、「本が思う存分読めると思って楽しみにして行って見たが、余り沢山の本で、目うつりがして、却って読めなかった」と追想しているように、その当時としては少なからぬ蔵書数を持つ図書館ではあったが、多感な作家坪田にとって安住の地とは成り得ず、僅か五カ月程で退職するに至った。その間の事情については推測の域を出ないが、生家の問題や創作に関わる問題等人知れぬ苦悩があったのであろう。退職後日も浅い大正八年に発表された作品『森の中ヘ』の中で、図書館について以下のように述べている。
 「館長の控えている室の前には黒い一条の綱が張ってあった。・・・私はそこ迄来ると、いつも綱の下を潜らねばならなかった。・・・細い黒い粗末な綱であった。然しそれは人の心を圧するに充分であった。・・・それは一年中休暇以外一日の欠もなしに、ビーンと空中を張り切って、図書館全部の秩序がそれ一つに懸ってでもいるように威厳を示していた。然しそれのみではない。その綱はその威厳を以って・・・そこに侵すことの出来ない見えざる壁を作っていた。・・・閲覧人の多くは、綱を越して好奇の眼を見張り乍らもその綱に近よりさえしなかった。
時が移り、人も建物も変わり、図書も図書館での増加のほか学内多箇所で独自の蔵書を持つようになった今日、その総数は坪田言うところの"目うつりする"量を遙かに越えている。そして今や我々は"オープン志向"のもと坪田にとって三世代目に当る新中央図書館の建設を目指し、学内には,"黒い綱"ならぬネットワークを張り巡らせようとしている。計画もいよいよ具体化しつつある現在、図書館の「今」を西方浄土の彼方から坪田譲治はどのような感慨をもって眺めているだろうか。



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Archived Web,January 17, 2000