No.11(1987.6.10)p 15-18


                         本の周辺1

竹田書簡に見られる出版事情

佐々木剛三(文学部教授)


    江戸時代の五大文人画家の一人に数えられている田能村竹田(1777-1835)は、画家として、また詩人として多くの作品を残している他に、多くの歌文集や書簡なども残している。とくにその書簡については、その数量も多く(帝国地方行政学会刊「田能村竹田全書 書簡集)として一冊にまとめられている)、彼の絵画についての考え方や見方などが示されていて貴重な資料とすることができるだけでなく、彼の日常生活、あるいは彼の人間性なども知ることができると同時に、その時代の世情を知る上でも面白い資料を提供している。たとえば、当時の書籍や絵画の価格などは、明治以降はともかく、実態の分からない当時のこととて社会史的にも興味深いものがある。一例として竹田の書簡中に記されている絵画の価格は次の通りである。

陳嘉言(明) 墨梅図 七十両 文政十年正月、高橋草坪宛。以下、引用の書簡はすべて「田能村竹田全書」による
施 溥(清) 三十五両
孫 逸(清) 山水図 三両 同年二月、亀山夢研宛
周 文(伝、室町時代) 山水図 一両一分 天保四年正月、妻女宛
沈宗騫(清) 山水図(十六幅) 二十五両 天保六年六月、帆足杏雨宛
蕪村 山水双幅 十二両 同年六月、今四郎宛
屏風一双 七十五両
花鳥 十六両

    このような竹田の書簡の中で、もう一つ面白いのは彼の出版についての記述である。たとえば、彼が文政十二年に飜刻、出版した袖珍本「石山斎茶具図譜」は、一冊が一匁二分であった(文政十二年五月十四日、亀山夢研宛)、ということなどはその一例である。また彼はその一生のうちに数冊の書籍を出版しているが、そのいずれについても、書簡中に出版の経緯を記していて、当時の出版事情を知る上で好箇の資料とすることができる。

    ここに取り上げるのは、彼の師、唐橋君山(1736〜1800)の著、「箋釈豊後風土記」である。

    この書は、豊後竹田の中川藩校、由学館の教授として、また、松平定信の内命で制作されたと考えられる「豊後国志」編纂員として、江戸から同地に招聘されてきた君山が、古写本「豊後風土記」を所蔵していて、その註釈の出版を日頃念願していたものであった。それが、君山の死後、竹田によって出版されたのである。

    竹田は、先ず知友に檄文を出して(享和三年十二月十四日、「亡師唐君山先生の宿志を達せんと謂ふ文」)、皆が銅銭十五緡ずつ持ち寄っての夏冬二回の集りで三両、彼の蔵書を売って三両余、計六両を資金として彼の旧知の書鋪、加賀屋善蔵に出版を依頼しようとしたのである。しかし、予定通りに資金は集まらず、結局のところ二両余の金が出来ただけであったらしい(文化二年秋、伊藤鏡河宛)。そんな事で、加賀屋も出版を渋ったらしく、加賀屋へは板下だけを書かせて、彼が私家版として出版することにしたのである(文化二年六月九日、鏡河宛)。その故に、この書の版権は竹田のものであり、現に同書の奥付に「竹田主人田憲蔵」とある。

    私家版であるために諸事倹約して、用紙も上下二通りの紙を使い、上は美濃紙で角切れは絹で覆い、下の方は半紙で作る、というようなことをしている(同年閏八月七日、鏡河宛)。そして文化二年八月に八十部ばかりが出来上ったが、摺り代、紙代が一冊当り一匁必要で、合計一両余も支払った(同前書簡)。これは伊藤鏡河が二百部ばかり注文してきたことに対する返事として書かれたもので、その中に、二百部だと二百匁、すなわち三両余がさらに必要になると言っている。この分は、前に準備した二両余の金を当てたようであるが、だとすれば竹田は、はじめに予定していた予算、六両からこの二両を引いた四両余りの金は彼の負担になった訳である。しかもこの書は彼の郷里でもあまり売れず、残りはそのままにして置いて欲しいと申しやっている(同前書簡)。二百八十部しか作らなかったのであるから、現在でも同書が稀覯本であるのは当然のことである。

    「箋釈豊後風土記」の出版とほぼ同時に、竹田は自著「填詞図譜」の出版についても熱意を燃やしていた。それは彼がその時期、京都に遊学していて、彼にとっては、この機会を逃しては再び出版することが不可能になると思ったからであろう。それ故に、この「図譜」の方も上京の前年、文化元年三月には既に序文も書いて準備万端おこたらなかったが、同二年五月に大阪へきて早速あちこちの書肆と交渉を始めたようである。幸い、填詞はこの頃になって急に流行しはじめ、竹田もその時流に乗って出版を急いだのである。(文化二年秋、鏡河宛)。

    そのためには、竹田は書肆と交渉するとともに再び私家版としてこの「図譜」を出そうとしたらしい。鏡河宛の書簡(文化二年秋)によれば、彼は遊学費用として三年分の三十両の借金を申し入れていて、その中からこの書の出版費を出すつもりであったらしい。しかし、今回はうまい具合に書肆が見つかって、早くも翌文化三年には出版されることになった。書肆は京都千本一條下ルの宛委堂境屋伊兵衛で、竹田はこの宛委堂のために国字総論を書き下ろして同書に附している。

    ところが、この時は「填詞図譜」二冊だけの出版で、竹田がはじめ予定していた「填詞続図譜」ニ冊、「填詞韻譜」二冊、「楽府指迷詞旨」合一冊(「箋釈豊後風土記」広告文による)は出版されなかった。多分、書肆の方がいやがったかと思われる。それで結局はこの五冊は刊行されなかったのであるが、この刊行されなかった分について、竹田は、またまた自費出版を考えたらしいのである。
    文華堂主、中山善次郎氏より贈られた竹田書簡にそのことが記されている。この書簡は未公刊なので、ここに全文を掲げる。



田能村竹田書簡(水島伝五郎宛)

甚暑之時分」公室万福、随而何方様にも御揃後清寧」被成御座候、奉大賀候、小生無事御安意可被下候」其後ハ彼是仕候而大ニ御無沙汰申上候、小生も」先達而より阿弥陀寺より洛東双林寺中ニ遷リ申候」則池無名翁の旧宅大雅堂ニ居申候、先ツ身ヲ」勝地ニ托し申候、乍去、不才之處を慙申候事ニ御座候、扨」小生も又〃来年の遊学之事、何卒乍御セ話毎度」恐入奉存候へ共、寛叔先生ニ御相談、宜敷御願申上候」小生も当年は月渡リ暮渡共〃大阪書林加賀」屋ニ遣し申候故、甚難渋仕候、何分宿より上セ申候斗」ニてハ取つゞきの来兼申候、夫故事ニより申候ハバ当暮」ハ下リ申候事も可有之候へ共、先ツ御願置可被下奉頼候」ナラバ一日でも逗留仕候而、填詞図譜杯も残リ四冊」も刊行仕度相念居申候、但シ是レも弐十両斗ハ掛」リ申候事故、容易にハ貧生ハ出来兼申候、ことしハ万」一立行兼下リ申候様にも相成可申候、夫ニ付申候而何」卒宿元の意何分にも宜敷筋ニいかやう共御片」付、一通リ御願申上候、或微禄を半分し而、医家を」立申共或ハ養子仕候て小子ハ閑居仕候而館中」諸生詩作の少〃宛相談でも仕候而、小生が微力ヲ盡」申候共、いか様共御相談可被下候偏ニ奉希候、小生ハ不」才に而ハ一家だに治リ申候事出来不申候、とても経術と申候」ハ出来不申候、此處偏ニ御憐察可被下奉頼候、況ヤ」多病に而小生が不調法ナル世事ニ責られ申候而ハ」益病を長し申候事ニ御座候ならハ比上へ諸人の邪」魔ニ成リ申候様ニ静ニ引込愚ヲ守リ申候より外に工夫」も無之候、何分にも小生カ不才之處、御憐察御め」ぐミ可被下候奉希候、寛叔先生、杣善にも此處」頼遣申候間、偏ニ宜敷御願申上候、尚委細ハ追而」可申上候、暑中御見舞、右御願申上度如是御座候、随」分甚暑御保護専一奉存候、頓首」田能村行蔵」六月九日」水島伝五郎様」まゐる人々御中」
    (読解に当っては、柴田光彦氏の御助力を受けた。記して感謝の意を表する。)


    この手紙には年記がないが、竹田が阿弥陀寺から双林寺へ移ったとあるので、文化三年のことであることが分り、六月九日というのは文化三年の、ということになる。宛先の水島伝五郎という人については知る所はないが、竹田の母が水島氏の出身であることから見て、母方の縁者であることは間違いない。それ故、寛叔(伊藤鏡河)へと同様に家庭の事などについても頼んでいるのであろう。

   さて、この書簡で竹田は先ず「風土記」の支払いについて、書肆加賀屋へ月々月賦で支払いの残金を払い込んでいるので大変苦しいといっている。先に申し込んだ借金は出来ずそのやりくりに苦労したことが分る。また「図譜」出版のことは、この年、宛委堂から出版したが残りの四冊分は書肆で引受けてくれなかったので自費出版にしたいが、それには二十両も必要で、とても自分には出来ないと嘆いている。「図譜」は竹田の好んだ袖珍本で(17.7cm×12.2cm)、あとの四冊(或は五冊)も同じ型で出版するとしても、小型本であるからとても安価に出せるというものではなくて、やはり「風土記」のような普通本と同じく、一冊当り五両(もしくは四両)の費用が必要であったらしいことが分る。そしてこの残りの四冊は前記のように結局出版されなかったし、当時すでに出来ていたと考えられる原稿も今日に至るまで発見されていない。
    
    「風土記」「図譜」以外の竹田の著作の出版については、彼の厖大な量の書簡の中にすらあまり見出すことができない。竹田自身の収入も、一首一匁の添削料(天保五年九月十一日、橋本竹下宛)や、画料などでふえてきて生活も豊かになり、したがって、書籍の出版ぐらい何でもないことになって、わざわざ書簡に記すこともなくなったのであろうと思われる。今回、こんな本を出しました、というような報告程度のことが見られるにすぎない。貧乏な、しかし満ち足りた青年時代の京都遊学、という事態が、竹田に、詳細な出版事情を書かせたのであろう。そしてそれらは、竹田の遊学の記録であるとともに、文化・文政時代の文化現象の一端を示すものであった。 



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