ふみくら:早稲田大学図書館報No.12(1987.10.26) p.2

新収資料紹介

「ふみくら10号」の表紙写真の"男子像"は上條俊介作、『船を曳く人』と判明


 先号で「作者についてご存知のことお知らせ下さい」とお願いしておきましたところ、まもなく商学部の原輝史教授よりご連絡をいただきました。作者は、先生の郷里松本の彫刻家で父上の知人であった方ではないかとのことで、母上を通じて確認していただいた結果、大正8年に専門部政経学科入学、彫刻家北村西望に師事した上條俊介氏の作品"舟を曳く人"と判明しました。氏は既に、昭和55年に亡くなられていますが、ご子息の耿之介氏に作者について書いていただきましたので、今号でご紹介します。なお、図書館史編集委員会で、昭和9年の(図書館)「日誌」の中に寄贈の記録があるのをみつけました。それによると、5月28日に寄贈されています。残念ながらその経緯については記されていません。
 また、昭和57年4月に松本の郷土出版社より刊行された「松本の美術<十三人集>」〔函架番号チ1・5906〕に作品、略歴が掲載されている旨ご子息よりご教示いたださました。

父のこと ―彫刻家の奇跡

上條 耿之介
 早稲田大学図書館所蔵になる『舟を曳く人』像作者、亡父上條俊介について御照会をいただいたので、父の筐底に秘されていた記録により一彫刻家の軌跡を辿ってみたい。
 明治33年松本市郊外朝日村に生まれた父は、松本中学校生の大正6年、1冊の日誌を残している。披くと、「老荘」「自然に帰る道を求む」[小学」「菜根譚」等、東洋的世界への痛い程の心酔が汲みとれる。「雪の朝。この無為にして而して大なる『声』・力・霊のあるを。吾人は此の自然より出でしなり。而して自然に帰へるなり。否吾人は現在自然と同体」しかし「我が自然主義は俗界の自然主義と大いに異なるなり。世のこの主義は唾して棄つべき也」と記す。更に私淑する吉田松陰・渡辺峯山・西郷南州への讃仰の詞章と共に、国家・社会への忌憚のない奔放な発言が紙上を駆けめぐる。日く。「飛行機」「ロイドジョージ」「撫子炭鉱爆発」「鳴呼寺内の非立憲」「原政友会はだめなり」「キューバ革命」……と。そして怒りをもってこう綴る。
 「総て人間に生を受けて此の地球に出でしからには何か其の者特有の性資を有す。同様にして其の者の思想(考へ)も特有のものを有す。其の者の最も幸福なるは其の特有のものを完全に発達せしめ自己を完全にするなり。今の教育を見よ。唯一定の型(忠君愛国)に入れたる思想を有する人間を作らんとして居り、其れに反抗して自己の自由に、特有の思想を発達せしめば、危険思想それ社会主義と。…天下の罪悪此れに過ぐるものあらんか」と。この「思索への自由」「無為なる自然ヘ」「反権力」は、中里介山との邂逅により、生涯より確かなものとなった。
 大正8年早稲田大学専門部政経学科に入学。同時に北村西望に師事。同13年帝展に「懊悩時代」初入選。爾来連続出展、昭和13年文展無監査となる。此の間、北村西望主催の曠原社に所属。製作に没頭。数多くのスケッチを残す。大正期をみると、『富士山麓茶屋の老婆と行商人」『トルストイ』『羊飼』『自我像』『水浴の女』『三等車の女』『踊り子』『京の農夫』(以上9年作)。『うどんを食う男』『うたたねの子供』『釣人』『銭湯の女と子供』『宮詣りの年増』『臨終の床の群像』『帝劇「出家とその弟子」第一幕』『唯円』(以上11年作)。『考える農夫』『鶴はしを振り上げる男』『姉さんかぶりの女』『ドーミエ風の夜汽車の顔々』(以上12年作)と。市井の人々の生きざまを時には軽妙に、時には重く描いた。ポルガの『舟を曳く人』(早稲田大学蔵)『重い荷を担う男』(松本深志高校蔵)等は、その父の一連の製作過程の前期的帰結であろう。なお、スケッチブックに、折節、製作・人生への煩悶がぶちまげられている。「なんで人々の笑ひがない/おれはせつないのだ/夜半の黒い風でも/小川の音でも/小虫の戸迷う悲しい歌でも/石でも木でも何でもかでも/皆なく音には/声があるのに/何で人の笑ひに声がない/美しい温かい柔らかい貧しいいのちの息を/そうだ悪魔奴が食べたか/強い固くななものに占められたせいだろうか」(大正10年記)。少年期に聞こえた「自然の『声』」が聞こえぬ己れへの、時代への煩悶であり怒りである。この心の溝を埋めきれぬ「冬の時代」を経て、昭和20年、大空襲の東京杉並永福町より松本に疎開。戦争を凝視した一芸術家の後期的境地を拓くのである。即ち『慈母観音』『草履を作る老人』『安さの首』『麦踏み』『青年』『花』『ものぐさ太郎』『良寛』ヘ。そして絶作『槍ケ岳開山播隆上人像』(2.8m――松本駅前)。製作への沈潜は、一先人への憧憬、そして己れの芸術的帰結への喜び、安堵感を綴った文字が筐の中に踊る。父は製作に先だち「彫刻は線であるか?」とのテーマを提げて昭和43年渡欧。帰国後テーマの確実性を納得し、己れの人格の「東洋的世界」への昇華を模索し始めた。北村西望のアトリエで桶を通しての「面こある微妙な線を理解せよ」と。石井鶴三の「線と容量との関係は精神と肉体との関係」に出発した理論は、この旅で"西洋と東洋""古代と近代"の凝視の中に置換された。「エジプトの村長像の永遠の時間と空間とによる面と輪郭を流れる線」を直視し、そして「旅」の終章として「パリ−の雪のロダン美術館で、有名なバルザック像にも同じ思いがした。くり返して宗教自作品とはいえ中宮寺の思惟像を比較してみた。一人椅座しているが然し孤立した感がない。その思惟・悩み多い衆生と共に在るという思いが、西欧の美学が科学的論理的に納得出来るが何か壁抗を覚える」と。また月光に映えるナイルのほとりでは「ピラミットの風景に大きな静寂が、時間と空間との未分化の全一の世界が」との啓示。そこには、天保期の大飢饉に歓想の浄土を求め、肉体の限界に賭けた一介の僧播隆の巨像に己れの凡ての芸術を睹した安堵感があった。その完成を待って逝った。81歳であった。



図書館ホームページへ

Copyright (C) Waseda University Library, 1996. All Rights Reserved.
First drafted Feburary. 09, 2000